その日、僕は、軽のライトバンで会社へ向かっていました。
始業時間には、ギリギリ間に合いそうでしたが、タイムカードは少し遅らせてるので、まだ余裕はあります。
しかし、たまに、開店を待っている業者がいて、店を開けるのがちょっと遅れると、激怒し、まるで犯罪者のように僕を罵ります。
「アイツら朝っぱらから来てんなよ…」
僕はそんな複雑な気持ちを抱えて、ハンドルを握っていました。なかなか変わらない赤信号。ノロノロと進む大型トラック。ムダに車間を空ける高齢ドライバー。そんな雑魚どもに、軽く舌打ちを響かせながら、僕はアクセルを強く踏みこみました。
山間部のワインディングロードを抜け、市街地を疾走し、海沿いの工業地帯まで来ると、もう、ここから先は信号がありません。
バックミラーでみるみる小さくなっていく大型トラックを一瞥して、僕は一目散にライトバンを走らせました。
そして、海沿いの最終コーナーに差し掛かったとき、それは起こったのです。
明け方に降った通り雨、かすかに濡れた路面、そして5速の飛びこみ。すべての条件がマッチしたとき、不意にタイヤが、死にかけのネズミのように鳴きました。
「やべえ…スベってる…?」
ごみ捨て場のおっさんの「あんまり飛ばすとあぶねえぞ」という言葉が脳裏をよぎりました。
それは、奇妙な浮遊感があり、お尻が10センチほど宙に浮いた感覚でした。ハンドルもふんわりと軽く、路面の抵抗をまったく感じません。4本のタイヤからは、コントロールを拒絶する、明確な意思を感じました。
車体は、大きく外へ振れ、そうかと思うと、ブルっと身震いして内へ流れ、つぎつぎとあらぬ方向へ僕を翻弄します。
海はすぐそこです。僕と日本海をへだてるのは、船のロープを係留する、錆びたアンカーだけなのです。
そうしているうちにも、車体は、ずるぅ〜、ずるぅ〜、と、アンバランスに、左右にブレ、海の方へ僕を引き寄せます。
かつてないエマージェンシーが僕を襲いました。ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい。
その瞬間、閃いたのが、あのゲームでした。
「これ、グランツーリスモやん…」
グランツーリスモとは、初代プレイステーションの名作ドライビングシミュレーションゲームです。
実際のクルマの挙動を忠実に再現し、リアルさをとことん追求した、既存のゲームとは一線を画す、革命的なシミュレーションでした。
そのこだわりは、BGMにまで及び、エンジン音まで実車の音をサンプリングしていました。つまり、ゲームでアクセルをふかせば、その車種の、本物のエンジン音が聞けるというワケです。
このゲームに、僕はどハマりしていました。
よく乗ったのは、マツダのロードスター、スープラ、そしてコブラでした。外国製のレーシングカーであるコブラは、小さな車体に、でっかいエンジンを載せた、400馬力オーバーの暴れん坊です。スタートでアクセルオンしただけで盛大にホイルスピンします。
http://www.shelbyasia.com/cobra/index.html
そんなコブラを操っていた感覚が、僕を覚醒させます。
アクセルを徐々に離し、スベっていく方向へ、丁寧に、そして小刻みに、逆ハンドルを当てていきます。
大事なのは、落ち着いてゆっくりやることです。
普段なら、タイヤは、70キロでも路面をつかんでいます。しかし、一旦スベってしまうと、減速しても、なかなかグリップが戻らないのです。
そして、40キロまで落ちたところで、やっとグリップが戻り、寸でのところでスピンを免れました。もしもあそこで、あせってハンドルを切っていたら、今ごろ海の藻屑となっていたでしょう。
何はともあれ、僕はグランツーリスモに救われたのです。
ちょっと盛ってるんじゃないか、と思われそうですが、これは僕が体験した、本当の話です。
ゲームの中で身につけた技術が、実際の感覚とフュージョンして、あたかも熟練のドライバーのように、僕を動かしたのです。
おそらく、例えば、フライトシミュレーターに熟練したゲーマーであれば、ゼロ戦も難なく飛ばせるでしょう。オスプレイだって余裕です。
残念ながら、グランツーリスモは、グランツーリスモの2になったとき、現実のレーシングカーにも採用されているコンピューターを実装してしまい、その面白さを失ってしまいました。
コンピューターというのは、タイヤの回転数を自動的に調整するテクノロジーで、つまり、運転が下手でも、機械が勝手にタイヤの回転数を調整してくれるので、スピンしなくなってしまったんですね。
たしかに、速くラクにコーナーを曲がれますが、ゲームとしての愉しみは半減してしまいました。
おすすめは圧倒的に、初代のグランツーリスモです。
この週末に、ぜひいかがでしょう。