家に帰る途中、「福岡方面」と書いたノートを胸の前に掲げている若者がいた。
ちょうど赤信号で止まった僕は、眼鏡の角度を調整して、その様子を観察した。若者は、まるでこれから雪山へ行けそうな厚着をしてボロボロのスニーカーをはいていた。
これがウワサのヒッチハイクか。今日は特別に冷えるから大変だろうな。しかし、なんだってヒッチハイクなんかするんだろう。しかもこんな真冬に…。
そう思って、もう一度その若者を見ると、男だとばかり思ったら女の子だった。まだあどけなさの残る頬は、寒さでりんご色で、眩しそうに細めた目には涙がにじんでいた。額にかかる髪が吹き抜ける寒風に舞っていた。きつく閉じた唇は、乾いて血色を失っていたけれど、なかなかの美人だ。
時間は8時をすこし回ったところで、駅前のネオンがなければ真っ暗で、このさきの道は、人家もすくない夜道になる。
もうすぐ信号が変わりそうだった。僕は眼鏡を外して眉間を親指で押してから、ふたたびかけ直した。そして再び路肩へ視線を戻すと、ヒッチハイクの女の子は、まだ僕の方を茫洋とした眼差しで見つめていた。
不意に巻きあげるような強い風が吹き、「福岡方面」のノートがパラパラとめくれた。今日、彼女はどこで一夜を過ごすつもりなんだろう。背中の巨大なバックパックに、野営できる装備一式が入っているのだろうか。それとも、カプセルホテルかネットカフェでも探すのか。
10分も歩けば、駅前にその手のテナントの入ったビルがある。しかしそうすると、ヒッチハイクの目的は失われてしまうのかもしれない。
けたたましいクラクションが響き、僕の前方に広大なスペースができていた。いつの間にか、信号が青に変わっていた。
あわててクラッチを踏み、ギアをセカンドに叩きこむと、アクセルを踏んだ。アルトのエンジンが苦しそうにあえぐ。僕はもっと強くアクセルを踏みこんだ。そしてヒッチハイクの女の子は、バックミラーのなかでみるみる小さくなり、やがて消えてしまった。