公園のゴミ箱が消えた。
そのゴミ箱は、巨大なフェンスのように丸く、鉄の編み編みになっていて、僕が小さいころから、雨の日も風の日も、公園の入口に揺るぎなく立ち続けていた。
僕は二十代のころ、仕事帰りで公園を通りかかったとき、コンビニ袋に入れた弁当の容器やジュースの空き缶を、そのゴミ箱へ投げ込んだ。
すると、それを目撃していた町内会長の爺さんが飛んできて「ゴミを捨てるな!」と怒鳴った。僕は、なんで、ゴミを、ゴミ箱へ捨てたのに怒っているんだ?と思ったけれど、スグに察した。
要するに、ゴミは自分の家で捨てろということなのだ。僕は口をゆがめて爺さんを睨みつけながら、無言でゴミ箱からビニール袋を拾った。
人生で、二番目に屈辱的な瞬間だった。
あれから10年が経ち、街中からゴミ箱が消えた。公園はもちろん、駅のコンコースやバスターミナル、最後の砦だったコンビニからも姿を消した。
その原因は、ゴミの分別収集でゴミ袋が有料になったからだ。捨てるのに金がかかるから外で捨てる。捨てられた方も、また捨てるのに金がかかるから、捨てられないようにする。きっと、そんな食物連鎖ならぬ、ゴミの連鎖が起こってゴミ箱たちは絶滅したのだ。
どこかおかしい…。
原点に帰ってみれば、そもそも街のゴミ処分場(収集や焼却場)は、おそらく、僕らの所得税(住民税)から予算がついている。それなのに、捨てるための袋にも課金している。
おまけに、焼却炉の温度によっては、分別する意味もない。分けて集めたゴミを結局まとめて焼いているのだ。
つまり、ゴミの分別は、袋に課金するため、そして、それをヒマな老人や無知な市民に売りさばくための詭弁なのだ。
ゴミに課金し細かい分別で相互監視させて抜け穴をふさぐ──
僕は、このスキームを今世紀最大の発明だと思っている。見事なトリックプレイだ。
役所には天才的なファンタジスタがいるに違いない。僕らはそのプレイに魅了され、点をとられ続けている。