少年は急峻な岩肌を素足で登っていた。
背中に担いだ革袋の帯が、少年の細い肩に食いこむ。 中には水がなみなみと貯えられ、少年の歩幅にあわせてタプン、タプンと音をたてる。
ひたいから流れる汗を、頭のひと振りでふき飛ばすと、少年はさらに足早となり、ゴツゴツとした岩肌を力強く登っていく。少年の後ろには、広大な森林が、まるで緑色の海のように広がっていた。
急な岩場を登りきると、薄暗い森の中を進む。そして森を抜けると、日の光が射し込む開けた場所に出る。地形をうまく利用した丸太作りの家に着くと、少年は石畳に並べられた木桶に、革袋の水を、慎重に移していった。
「水汲みおわったよ!」
すべての水を移し替えると、少年は家へ向かって声を張り上げた。そして、革袋を壁にかけると、さっきとは反対側の、南に下るゆるやかな斜面を駆け出して行った。
「あの子はまた、チルド爺さんのところへ行ったのかい?」
駆ける少年の小さな背中を見やりながら、少年の父は言った。
「そうでしょうよ。あの子にとって、チルドのお爺ちゃんは、英雄ですもの」
少年の母が、エプロンの裾で手を拭きながら答えた。
「英雄、か...。しかし、いつまでも続けるわけにもいくまい。村医者のゼブラ先生も、もう休め、恐ろしい恐ろしいと言っていたそうだが…」
少年の父は眉間にシワを寄せながらつぶやいた。
「薪(まき)集めはチルドお爺ちゃんの生き甲斐なのよ。そっとしておいてあげましょう」
少年の母は、穏やかな口調で言うと、夕飯のしたごしらえを再開するために、台所へと戻っていった。
ハイク橋
少年は、ハイク橋のかかる小川の手前で足を止めた。そして、橋には目もくれずに、大きな木の枝に吊り下げられた、丈夫なツタに飛びつき、からだの反動を利用して、軽々と向こう岸へ飛び移った。
そこからさらに歩くと、「散るろぐ」と掘られた矢印の板があった。少年は、逆に向けられたその矢印を正しい方向へ戻し、さらに森の奥深くへと分け入っていった。
チルド爺さん
その老人は、千年杉の巨大な切り株のうえに、胡座をかいて座っていた。手には年季の入った羽ペンがにぎられている。そのまえには羊皮紙が幾重にも束ねられ、老人は、羊皮紙に向かい、一心不乱になにごとかを書き連ねていた。
少年は、老人を驚かせないよう、ことさらに足音を高く鳴らしながら、近づいて声をかけた。
「チルド爺ちゃん、昨日はどうだった。薪はたくさん集まった?」
老人は、羽ペンを置いて目をあげると、眩しそうに目を細めて言った。
「ダメじゃな。あのていどではホッテン鳥も寄ってこんて。もっと薪をくべねば、ちっともぬくもらんのう」
「炎上だね…」
「そうじゃ。炎上じゃ。たった一枚の羊皮紙に、ひとりが一本づつ薪をくべる。それはやがて小高い塔となり、蒼白い炎をはらみながら、天高く燃え上がる…」
老人は両手を広げ、恍惚とした表情を浮かべて天を仰いだ。少年はそんなチルド爺さんを見てにっこりと微笑んだ。
はてな村
ウェブ大陸の片隅、はてな村には、チルド爺さんのように、薪を集めて生計をたてる者がいる。羊皮紙を羽ペンのインクでしたため、村の石碑のうえに並べる。
村人はそれを読み、気に入ったらいっぽんの薪をくべる。薪が一定の本数を超えると、どこからともなくホッテン鳥が舞い降りて、口から火を吹き、薪に火をつける。
薪が少なければ、火はスグに燃え尽きてしまう。ところが、村人が次々に押し寄せて薪をくべはじめると、火はより一層燃え上がり、辺りは炎に包まれる。それは標(しるべ)となり、大きな狼煙をあげるのだ。
ギルド
薪を集める村人は、それぞれのギルドに属している。
ウェーイ、互助、古参、同期、試される大地、アフィ、メディアクリエイト…。さまざまなギルドは、それぞれに薪をくべ合っている。そんな中、ギルドに属さないチルド爺さんは、村人からは変わり者だと噂されていた。
「お爺ちゃんは、どうしてギルドに入らないの?」
少年は、羽ペンをインクにひたし、その先端をベロベロなめるチルド爺さんにたずねた。
「ギルドはのぅ。最初はいいんじゃが、やがて闇に飲まれるんじゃ。生き残るのはせいぜい1人か、2人。ほかは養分よ…悲しいもんじゃ」
チルド爺さんは、羽ペンを指でくるりと回すと、持ち手をポンッと手のひらに打ちつけて、伏し目がちにそう言った。
「そうなんだね…」
「そうじゃの。もっとも、本職は薪など集めやせんて。キーワードを仕込んで大陸中の情弱へ文字を書きよる。そっちの方がいい暮らしができるからの」
「だったら、なぜお爺ちゃんは薪を集めるの?」
「キーワードは、たとえるなら、天からの恵み…太陽の光、空に吹く風じゃの。しかし、薪は違う。薪はのう、人のぬくもりを感じられるんじゃ」
老人はつぶらな瞳を、子供のようにキラキラと輝かせながら言った。
「薪にはぬくもりがある」
少年はチルド爺さんの言葉を反復した。
「だからお爺ちゃんは薪を集めるんだね」
「そうじゃの。しかし、ちがごろは、ちっとも集まりゃせん。わしの時代は終わったんじゃ…」
そう言うと、チルド爺さんは苦悶の表情を浮かべ、大粒の涙をこぼした。そして産まれたての赤子のように声をあげて泣き出してしまった。
少年は、悲痛にえずきながら涙を流すチルド爺さんの背中をさすり、手をとりながらこう言った。
「大丈夫。お爺ちゃんならきっと出来る。お爺ちゃんは天才なんだから」
「そうかのぅ…」
「そうだよ。みんなお爺ちゃんの記事を楽しみにしてるんだよ。チルドお爺ちゃんの更新を待ってるんだよ!」
それを聞いて、ようやくチルド爺さんは泣き止んだ。そして、再び羽ペンを持つと、羊皮紙へ向けて感情のおもむくままに書きなぐり始めた。
その調子だよ。お爺ちゃん…。
少年は、チルド爺さんに気づかれぬよう、そっと足音を忍ばせて、その場を離れた。そしてもう一度振り返って、チルド爺さんの姿を見つめると、ひとつ大きくうなずいて、森の向こうへ駆けて行った。