こんちは。ライターのチルドです。
たまにはライターらしい記事も書こうかな。芸能界の時事ネタで、アクセス稼ぎなんてマネはしたくないから、しばらく経ってから投稿しようと思う。
つまりこの記事は、ベッキーのラインのやりとりが暴露されたときに書き、下書きに入れていたものだ。その後どうなるかは、予測がつかないけれど、僕は今の、自分の率直な気持ちを綴っておきたいと思う。
二十歳の僕が、今の彼女と付き合いはじめたときも、向こうは結婚していた。二十歳の僕に失うものはなかったけれど、年上の彼女にはあった。あり過ぎるくらいだった。
それでも、僕との恋にすべてを賭してくれた彼女に、僕はどれくらい応えられただろう。もしも僕が逆の立場だったら、それだけのリスクを冒してまで、彼女を愛し抜けただろうか。
そう考えると自信がない。
翻ってベッキーだが、ベッキーはあの恋のリスクを十分に理解していたはずだ。
レッツポジティブ
センテンス・スプリング
一見、不謹慎に思えるラインのやりとりも、川谷絵音を不安にさせないためだと考えれば、納得がいくんじゃないだろうか。
川谷絵音がどうこうではなく、ベッキー自身がどうしたかったのかということだ。
すべてが、相手を思いやっての、やりとりだったとすれば、彼女は1ミリも不謹慎ではなく、真実の愛にすべてを賭けていた、ひとりの女性ではないかな。
だから、僕は、ベッキーを手放しに批判する気にはなれない。いや、ベッキーを批判的に見てしまうすべての者は、愛より打算を優先する冷たい人間だ。
僕はそう思う。
これは、あくまで報道されている範囲内での、僕の個人的な意見でしかない。しかし、他の人々も、報道されている範囲内のことしか知らないのではないか。
ベッキーも芸能人である前にひとりの人間だ。イジメを許せないと言った口で、ベッキーを批判するのはダブルスタンダードではないだろうか。
さらに、世論に追随するように、批判を始める芸能人までいる。芸能界という大きなくくりでみれば、ベッキーは身内ではないのか。
たしかにベッキーは分別のない恋に落ちてしまった。愚かであったのかもしれないが、身内を助けてやろうという気持ちにならないのが不思議で仕方ない。
最後に、ベッキーが、またテレビで、あの素敵な笑顔を見せてくれる日を、願っています。