時計の針は12時14分で止まったままだった。それはなにかエモい理由じゃなく、ただの電池切れだった。ふたたびその針を動かすには、そのへんに転がっている単3電池を交換すればいい。だけど僕はあえてそのままにしている。時間を見るならテレビもあるし、スマホのアラームもあるからね。
つまり、時計なんてなくても、生活に支障はまったくないんだ。それなのに、ふとした拍子に時計を見てしまう。そして、そのたびに、12時14分で止まった針を見て、ああ…、と納得する。
この国のどこかに、あえて時計を置いていない高級な旅館があるって聞いた。テレビも時計もない、時間を忘れた旅館。目的は、時間に縛られない空間の演出とか、そんなくだらない趣旨だったと思う。真の癒やしは時を忘れることなんだ。
僕もそれに習って、時計を止めたままにしている。そうすれば、電池切れの時計さえ誇らしくさえ感じる。
一方で、ときおり無意識に時計を見てしまって、そのたびに僕は、自分の未熟さを呪って、時計から無理やり視線を引きはがす。まだまだ、だ。何がまだまだなのか分からないけど、とくかくまだまだなんだ。
止まった時計にも慣れて、もう忘れかけていたころ、掃除のついでに電池を入れてみた。やっぱり、ただの電池切れで、丸い壁掛け時計は、ふたたびチッチッチと軽快なリズムを刻みはじめた。
それから、寝転んでゲームをしていた。子供のいない僕の暮らしは、自由で、気が向いたときにアイスを食べる。ウチにいるときは、まるで永遠の夏休みみたいだ。
そして時計を見ると、もう2時間たっていた。あと1時間ゲームをしたら、鉄腕ダッシュがはじまる。それを見ながら夕飯を食べる。
時計が動きだしたら、なんだか急にメリハリが出てきた。まっさらな画用紙に定規で線を引いたように、暮らしに区切りがついたんだ。やっぱり時間はすごい発明なんだ。