ちるろぐ

ここが僕のアナザースカイ

痴漢をゆるせない

満員電車の女性専用車両や職場のセクハラなどでソーシャルメディアが揺れている。その多くに「女性側にも責任がある」等の意見も散見され、この国の民度を疑ってしまう。

それはさておき、以前「すべらない話」という某テレビ番組で、とある芸人Hのとても印象深いトークがあった。

結婚したばかりの芸人Hは、帰宅中に、おなじく帰宅中であった妻を偶然発見する。すると芸人Hは、妻に声をかけるのではなく、コッソリと背後から忍びより、妻のお尻をさわった。妻は驚いたが、相手がHだと気がつくと、こんなところで…というように非難の目をむけるもののすぐに笑顔となり、手をつないで仲良く帰宅した、という内容だった。そして、芸人Hは力説する。「痴漢ちゃうんですよ!妻やから!」と。

僕は、そのトークを聞いて特別な印象を受けた。街で見かけた女性の背後に忍びよりお尻をさわる。それはあきらかな痴漢行為である。それはまるで「わたしは結婚によって痴漢を公然と行使できる権利を手に入れた」とでも言うかのようなトークだった。「妻やから!」と興奮気味にまくしたてるHの目は少年のように輝いていた。

つまり、妻という特別な存在を手にしたHは、町中で堂々とスカートの上から女性のケツを揉むことができる。ひるがえって、未婚の僕らはどうだろう。未婚であり彼女もいなければ、すべてが痴漢行為となってしまう。あえて母親を異性と定義したところで、そこにトキメキはないだろう。他方で風俗へ行けばいいという意見もありそうだが、それはまったくもって見当違いも甚だしい。あくまでカタギであることが重要なのだ。

一般女性のお尻をまちカフェで触る。裏返せば、それがスペシャルであり、価値のある行為に昇華されている。つまり、僕ら男性は、痴漢と女性への単純接触をまったく別の行為だと切り離したとき(そんなことは不可能だが)それ以上ない満足感と幸福感を感じてしまうのだ。

想像してみてほしい。可愛いなと思うあの子や、むしゃぶりつきたくなる美人のお尻を…。それらがすべてさわり放題、言い換えれば、定額もみ放題になったとしたら、もはや働く意味すら失って、ひたすら街を駆けまわり、ありとあらゆる、おっぱいやお尻にタッチするのではないか。それこそ、肩書やプライドをかなぐり捨てて、卵かけご飯をかきこむように無心で次々と流れてくるオシリを撫でまくるのではないか。

それこそ究極の自由であり、定額さわり放題の真骨頂を見事に具現化した、僕らのパラダイスと言えるだろう。

結局、なにが言いたいのかというと、僕らの夢をすっ飛ばした議論など、なんの役にも立たないということだ。誰だって、許されるならオシリやおっぱいに触れてみたい。その感触を知りたいと願って止まないということなんだ。