インターネットも、お前が言うなって時代に、とうとうなってしまったね。だけど、こうやって、僕みたいな無辜の下層民でも、自由に散文を書ける。
それだけで幸せじゃないか。
やっぱり、ブログの規約やグーグルのポリシーをリスペクトしてよかったよ。こう見えて僕は、一線を超えないように、はしこい子猿のようにふるまってきた。
それが今日の安泰に繋がっているんだ。
お金もいらない。
名声もいらない。
僕は、ペン習字の美文字でも、流麗な毛筆でもない、デジタルなゴシック体が好きなんだよ。それを、雨粒が頬へ落ちるように、ぽつり、ぽつり、打ちこんでいく。
そして僕はひとりで文章を書く。
多くの職業ライターや、ブロガーと呼ばれる人々は、けっきょくのところ、換金可能な見返りのためや、自己実現のために文章を書いている。
周りの反応を気にして、読者のためにモノを書いている。
それは、多くの人にとって言葉が、意思を伝達する記号であるからなんだろうね…。だから、みんな、言葉を利用して、言葉へ自分の理想を投影して、ほかの人に見せようとする。
それは、ある意味、他者へ向けた、説得であり、洗脳であり、強制でもある。
そして、言葉の重みに属人性を求めると、この人が言うから、同調しておこうとなる。
しかし、意見が、内容ではなく人に委ねられるようになると、発信する側と、それを受け取る側の双方に、歪な繋がりが生まれてしまう。流行りの言葉にすると、弱者は強者の言葉を、忖度して評価してしまう。
すると、それに抑圧された弱者は、強者の言葉が、ひとたび、公平を欠いたり、乱暴になったりすると、ポリティカルコレクトレスという解放を求め、一斉に蜂起してしまう。
僕はそれが人間という生物だなんて、偉そうに言うつもりはない。
ただ、どっちもどっちだよなぁ、と、やれやれ顔をするのみなんだ。
今日は、そんなところです。