僕の若いころの口グセは「天下とりてぇ」だった。
学校を卒業して、自営業の軽天屋(石膏ボードで天井や間仕切りを作る仕事)のおっさんの下働きをしていたときも、建築現場の資材置き場に寝転んでは、空を眺めて、「天下とりてぇ」と、つぶやいていた。
「天下」とは、一体なんだったんだろう。ドラゴンボールの天下一武道会とか、信長の天下布武とか、とにかく「天下」には、例えようのない魅力があった。
就職氷河期の平成初期、僕は、作りかけの巨大なビルや、公共施設のコンクリート面に、アルミの支柱を打ちつけ、ワンタッチと呼ばれる電動ドライバーで、石膏ボードにビスを叩きつけていた。
40歳になって、ひとり暮らしをはじめて、家賃や生活費、クレジットカードの返済で、目減りしていく通帳残高を見ていると、また無意識に「天下とりてぇ」と、つぶやいていた。
そして、ふと、学生時代の部活仲間はどうしてんだろうな、と思った。10人いた同級生のうち、2人は結婚して子供がいるのは知っていた。
そして、あの時のキャプテンは、東京海上に就職した。いま考えると、頭も良くて本当に良い奴だった。
あるとき、部活の練習に、体育館が使えず、外も大雨の日があった。その日ばかりは、練習も休みになるハズだった。
365日、ひたすらキツい練習に明け暮れる日々で、今日はラクをできる。就業のベルを聞きながら、僕はちいさな幸せを感じていた。
放課後、部室へ行ってみると、みんな集まって着替えていた。「きょう練習どこでするの?」無邪気に尋ねた僕に、キャプテンは「廊下でする」と優しく答えた。
キャプテンは、いつも親切だった。何かにつけてバカだ、ウンコだ、と罵っていた僕と違って、言葉遣いも丁寧で、同い年なのに、バカな子を守ってくれる感じだった。
みんなが廊下に集まって、僕は、こんなに狭いところじゃ走ったりできないと思った。けど、いざ始めるとぜんぜん走れた。
キャプテンの考えた練習は、地味なのにキツくて、しばらくすると汗が吹き出していた。こんなところで、こんなキツさを味合わされるなんて、せっかく休めると思っていた僕は、心底ガッカリしながら、キャプテンの支持にしたがって、ヒイヒイあえぎながら、走ったり、ゴリラステップをした。
狭いキッチンで、そんな回想をしながら煙をはき出すと、煙はみるみる換気扇に吸いこまれていった。あの頃のみんなは、どうしてるんだろう。僕だけが、天下をとれずにいるんじゃないか。
そんなことを考えながら、左手に持ったスマホの検索ボックスに、キャプテンの名前を入れてみた。もしかしたら、今どうしているか、わかるかもしれない。
名前は、思いがけず簡単にヒットした。やっぱりちゃんと辞めずに働いているみたいだった。当たり前だけど…。
企業PRみたいな画面にキャプテンが写っていた。髪型もおんなじで、部活のユニホームからスーツに着替えただけみたいに見えた。顔もぜんぜん変わってなかった。
肩書は課長代理だった。課長の代理って、そんなに偉くなってなかったんだ、とか思って、年収を調べたら、課長の代理でも年収1000万は軽く超えていた。なにかトリックがあるのだろうけど、それを深堀してもしょうがないから、ブラウザをそっと閉じた。
キャプテンは天下をとったのだろうか。笑顔でも真顔でもない、フラットな表情からは、なにも分からなかった。思えば、あの頃からキャプテンは、感情を表情に出さなかった。笑いでも、憤りでも、悲しみでも、いつもしっかりコントロールされていた、そんな表情だった。
僕は、気に入らないことがあると、今でもほっぺたをふくらまして、文字通りのふくれっ面になっている。喜怒哀楽がダダ漏れになっている。
年々、喜んだり、楽しんだりすることが減ってしまったから、怒ったようなふくれっ面か、哀しそうなへの字口に、表情が固定されちゃっていると思う。
お腹空いたなぁ…