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ここ最近、著名なブログに紹介されるなどして、読者が急激に増えたことに戸惑っている。誰かに想いを伝えたくて、だけど伝わらなくて…。
そんな葛藤を、個人の日記レベルで届けていたはずなのに、気がつけば、遥かに高いステージに立っていた。
僕は上から人に物を言うのがとても苦手だ。だから、謙虚さというよりは、臆病さの成せる技で、あえて道化者を演じていたきらいもある。
しかし、今後はそうも言っていられないだろう。他のブログより、2段も、3段も、うえのステージに来てしまった以上、それに相応しい記事を書かねばなるまい。
ぱくたそ
マネーヒストリー
さて、先日、お金にまつわる物語を2つ書いた。自分ではちょっとした世間話のつもりが、思いのほか反響が多くて驚いた。
しかし、同時に「具体例が示されていないのでは?」との指摘も数多くよせられた。
仰るとおり、僕は具体例をあえて書いていない。それは、節約に対する考え方は人それぞれであり、あまり具体的に過ぎると、ある人には有効、しかし、またある人にとってはマイナスになると考えたからだ。
たとえば僕が、節約・貯金に思いを巡らせたとき、車の駐車場代などをムダな出費だと考えている。それは、駐車場を借地として捉えたとき、非常に効率が悪いからだ。
自家用車での通勤を例にあげてみよう。ご存知のように駐車場とは車を駐めるためにある。
しかし、会社にいる時間、つまり、8時に出社し19時に帰宅するサイクルであると、11時間は空の土地にお金を払っていることになってしまう。
1ヶ月、1万円で駐車場を借りたならば、年間12万円。365日で割ると、1日、約330円。ざっくり見積もって、年間半分の6万円はムダになっているだろう。
そこで僕は、歩いて10分ほど離れた施設の駐車場を借りている。月々3千円だ。往復にかかる時間が無意味になりそうだが、歩きスマホであったり、なにも考えなかったりすることで、移動時間を有効に使っている。
ただし、ちょっと出かけたいときは明らかな不便を感じるし、雨が降ったらうんざりということもある。
これは、各人で、利便性とコストのバランスを判断しなければならない。
僕が節約や貯金について語るとき、気をつけているのは、何も考えずに、1万円の駐車場を契約(買う)してしまうことである。
世の中の多くのビジネスは、そこを考えさせないことによって成り立っている。僕がときどき車について否定的な意見を書くのは、車がなくても人は生きていけるからだ。
つまり、具体的な節約方法を書いてしまうと、それに囚われてしまい、場当たり的な対応しかできなくなってしまう。
僕は、僕のブログの読者へ向けて、そんな薄っぺらいライフハックを提供したくないのだ。
若者は保険をかけるな
前置きが長くなってしまったが、ここからが本題である。
保険をかけるな、という言葉に、また僕があさっての方向へ旅立ってしまうのかと危惧したかもしれない。しかし、これはごく真面目な話しなのだ。
保険には様々な種類があるが、僕が若者にかけて欲しくないのは、死亡保険である。あなたがもしも亡くなったとき、家族が受け取るビッグマネー。それが死亡保険である。
死亡保険は、入院や通院などの生命保険のなかにひっそりと含まれている。若者であれば微々たる掛け金であるが、だからと言って、ムダな出費であることに変わりはない。
なぜなら、あなたが若くして亡くなって誰かに保険金が支払われても、喜ぶ人など、どこにもいないからだ。
まともな親ならば、自分の子供を失って転がり込んだお金を喜んだりはしない。むしろ、どんなに費用がかかっても、手厚く供養してあげたいと望むだろう。
つまり、よほど特殊な家庭事情がない限り、若者が死亡保険に加入するのはまったくもって無意味なのだ。あなたが若くして命を落としても、その後の心配はいらない。誰にも迷惑などかからない。
ただ、僕が悲しむだけだ。
ちなみに僕は、自動車保険を除いて、保険と名がつくあらゆる商品から距離を置いている。
僕には保険という商品が、まるで宝くじのように思えて仕方がない。
かつて、平賀キートン太一は、その作中でこう語っている。「生命保険とは、一定期間内に人が生きるか死ぬかにかけたビジネスである」と。
僕は、お金について考えるとき、いつもこの言葉を思い出している。
念のため付け加えると、保険をかけるなというのは、独身である場合だ。配偶者や扶養家族がいるならば、加入するのが無難だろう。
残された家族と、子供の笑顔を守るのは、あなたの最大の使命である。