ミニマリストを語るとき、それは、そのまま世代論になるのかもしれない。
年間、2千万トンの食料を廃棄するこの国で、飢えて死ぬことがあるだろうか。食物はそこら中にあふれ、もしも無銭飲食をして捕まったとしても、牢獄の中では飢える心配はない。つまり、この国では、無条件に生きる権利が保証されているのだ。
それは、究極の豊かさであると同時に生存競争の喪失でもある。なぜなら人間は、太古の昔から生きるため、食物を得るために争ってきたからだ。
生きるために争う必要がなければ、人々のあらゆる生存競争には、原理的な正当性は無くなる。
つまり、現代の競争とは、本質的な争いではなく、他者との比較による、優越感や物質欲に起因する、利己的な略奪なのだ。
僕はそれを「強くてニューゲームの時代」と名付けようと思う。
強くてニューゲームとは、一度ゲームをクリアしたあと、クリア時点のデータを引き継いで、新たに初めからゲームを遊ぶことができるシステムである。このシステムでは、プレーヤーが序盤から無敵の強さを持った状態でリスタートするため、容易にゲームをクリアすることができる。
参考:Wikipedia
強くてニューゲームの時代
僕たちの住むこの国は、戦後の高度成長によって、膨大な豊かさと富を生み出した。そして、富と豊かさは、それが再生産することによって、さらに強度を増し、社会の基盤を揺るぎないものにした。
そこに生まれた僕らは、生存のために争う必然性がなく、生まれながらに生存権が保証された、ゲームで言うところの無敵の状態になった。
しかし、人間の本能には、競争の遺伝子が組み込まれている。つまり、飢える心配がなくとも、誰かと争おうとしてしまうのだ。
その無自覚な略奪に気づき、生存権が無条件に保証されている世界に、適応した生き方をする世代。
それが「ミニマリスト」ではないだろうか。
端的に言えば「金持ち喧嘩せず」の境地である。
この、強くてニューゲームの時代に、僕らは何を求め、どこへ向かうのだろう。
さぁ。未来に、乞うご期待だ。