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お試し行為


新宿駅の喧騒は、ちひろの心臓の鼓動を早めていた。

「年収1億円の男性経営者……」

鏡のまえで何度もチェックした、淡いベージュのワンピース。おろしたてのパンプス。結婚相談所経由でマッチングした「仮交際」の初デートのため、ちひろは可能な限りの準備をしてきた。

彼の名は、拓真(たくま)。40歳。プロフィール写真からは、知性と洗練された雰囲気が滲み出ていた。きっと、待ち合わせ場所から近い、洗練されたカフェや、景色のいいラウンジに連れて行ってくれるのだろう。ちひろの胸は、期待で膨らんでいた。

「ちひろさん?」

時間ぴったりに、彼は現れた。写真通りの、清潔感のあるスーツ姿。爽やかな笑顔。ちひろは深く一礼した。

「初めまして、ちひろです」

「拓真です。お会いできて嬉しいです。じゃあ、行きましょうか」

拓真はそう言うと、駅前のロータリーを横切り、人波の中を迷いなく歩き出した。ちひろは彼の背中を追った。

ところが、拓真が立ち止まったのは、誰もが知る、あの黄色い「M」のロゴの下だった。

「まず、ここで話しませんか?」

拓真は、にこやかに言った。その場所は、新宿駅東口の、いつも人でごった返しているマクドナルドだった。

(え、マクドナルド……?)

年収1億。経営者。初デート。新宿駅前。

その単語の、どれをとっても、「マクドナルド」とは繋がらなかった。ちひろは一瞬、何かの間違いではないかと思ったが、拓真は奇妙な足取りで店内へ入っていく。

「席、探しますね」

彼はテキパキと空いている席を見つけ、ちひろに座るよう促した。そして、「何がいいですか?」と聞かれたので、ちひろはかろうじて「アイスコーヒーで……」と絞り出した。拓真は自分の分と合わせてカウンターへ向かう。

数分後、目の前のテーブルには、ドリンクホルダーとポテトのSサイズ、それと、なぜかチーズバーガーが一つ置かれた。拓真はチーズバーガーを一つ手に取り、ちひろに向かって「どうぞ」とポテトを差し出した。

「お腹空いてませんか?このポテト、熱いうちが美味しいですよ」

ちひろは、目のまえの油で光るポテトを、悲しい気持ちで見つめた。彼女が想像していた「洗練された初デート」の絵は、完全に崩れ去っていた。

(この人、本当に年収1億なの?それとも、私に興味がないから、これでサッと済ませようとしているの?もしかして、私の見た目が期待外れだったとか……)

悲しみと、わずかな怒り、そして羞恥心がごちゃ混ぜになる。もしこれが、普通のサラリーマンとのデートならまだ納得できる。でも、相手は高収入のエリート経営者。まさか、結婚相談所で、こんな「格安デート」を体験することになろうとは。

「いただきます……」

ちひろは、無言で一本、ポテトを手に取った。塩味が、心にしみる。拓真は、美味しそうにチーズバーガーを頬張りながら、陽気な口調でメイドカフェの話を始めた。

「ちひろさんは、休日は何をされているんですか?」

「え、あ……そうですね、時々、美術館に行ったり、あとは友人とカフェで話したり……」

ちひろは、拓真の質問に、笑顔を作ろうと努めながら答える。しかし、心はもうここになかった。

(ムリ。ムリムリ。帰り道で、結婚相談所の担当者に『交際終了』と連絡しよう……)

そう決意し、ちひろはポテトをやけくそで食べ進めた。拓真は、ちひろがポテトを食べる仕草や、会話の間の反応を、真剣な眼差しで観察していた。

デートは、結局30分ほどで終わった。拓真は「今日はありがとうございました。楽しかったです」と丁寧に頭を下げ、次の約束をすることなく、別れた。

数日後。ちひろは、結婚相談所の担当者である女性に電話で、交際終了の意向を伝えた。

「拓真さん、とても素敵な方でしたが……ちょっと、私とは合わないかな、と思いました」

「あら、そうなんですね。マクドナルドですか?」

その声に、ちひろは驚いて聞き返した。

「え、……ご存知なんですか?」

「ええ、報告は受けています。ちひろさん、実はあれは、試し行為だったんですよ」

「試し、行為……?」

ちひろは、膝から崩れ落ちた。

「彼は、初対面で高級店に連れて行くと、相手が自分のお金やステータスにしか興味がないかどうか、見分けがつかないとおっしゃるんです」

担当者は、淡々とした口調で続けた。

「わざと安い店へ行く。そして、その時の反応を見る。不機嫌になるか、文句を言うか、それとも、場所に関係なく目の前のポテトを美味しそうに食べ、相手との会話を楽しめる心持ちの豊かさがあるか。彼の周りには、お金目当ての女性がたくさん集まってくるので、彼はいつも女性に試練を課しているんです」

ちひろは、耳がキーンとなるのを感じた。

あの、脂ぎったポテト。

悲しい塩味の、あのポテト。

あの時、ちひろの態度はどうだっただろうか。正直、彼女は内心で「こんなところに連れてくるなんて」と、軽蔑していた。会話は続けたものの、心は完全に閉じ、悲しみに暮れていた。

「……あの、彼は、私のことを、どうおっしゃっていましたか?」

ちひろは、震える声で尋ねた。

担当者は、少し言い淀んでから、やさしい口調で答えた。

「拓真さんは、『ちひろさんは、とても素敵な女性でしたが、マクドナルドで、少し悲しそうにポテトを食べていたのが、気になりました』と。そして、『場所に関わらず、目の前の食事や会話を楽しめる、器の大きい方が好み』だと……」

ちひろは、もう何も言えなかった。

年収1億円というステータスに目を眩ませて、高級なデートを期待し、それが裏切られた途端、不満の表情を隠しきれなかった自分。

彼の試し行為は、見事に、ちひろを炙り出していた。

トレイに広がったフライドポテト。

あの時、ポテトを食べるべきだったのか、それとも、目の前の男に投げつけるべきだったのか。

結婚相談所のアプリを開く。画面には、拓真の笑顔が不気味に、ちひろを見つめていた。

(コイツ……せめてサイゼにしろ)

ちひろは、もう二度とフライドポテトは食べないと、心に固く誓った。