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太宰治の人間失格を読んでみた

四十歳を迎える、節目の年に、太宰治の人間失格を読んでみました。しかし、自分には、さっぱり、その良さが、分かりませんでした。


人間失格

人間失格

錯綜する視点

ところで、物語りの主人公は、葉ちゃんで合っているのでしょうか。

僕が読み解いた構成は、まず、物語のなかに筆者がいます。筆者は京橋のスタンド・バアのマダムから葉蔵という人の古い手記を入手します。

葉蔵の手記は、葉蔵の視点から書かれた、日記なので、 筆者はその手記をもとに物語を仕立てた─、というふうに読んだのですが、合っているでしょうか。

葉蔵は筆者によって書かれ、筆者は本の著者(太宰治)によって書かれている─、という認識です。この前提が間違っているなら、僕の国語力はその程度ということです。お察しください。

印象的な片仮名

むかしの小説は、外国語の片仮名がとても味わい深いですよね。ヴァイタリティ、スタンド・バア、サーヴィス、セエター、ヴルウプ、どれも思わず発音したくなる(読みながらつぶやいた)ものばかりです。

中でも僕がすこぶる気に入ったのがグルウプでした。グルウプを知ってしまったら、現代のグループは、いかにも貧弱ではないでしょうか。

薬物の使用法

古い本にはよく薬物に関する記述がありますよね。昭和初期には、いわゆる覚せい剤がふつうに薬局で売られていたのです。

現代に蘇るなら、ドラックストアに注射器とアンプルがセットになって棚にある感じでしょうか。

物語りの中でも案の定、葉蔵は安易に手に入るその薬物の虜となってしまいます。そして最終的には病院(檻のついた部屋)に閉じ込められてしまうのです。

ワザ、ワザ

物語りの序盤で、葉蔵は、同級生の竹一に、自分の行動がわざと、作為であることを見破られます。

僕にも葉蔵と似たようなところがあります。怒りや嫉妬など、あらゆる負の感情と徹底的に向き合いたくないのです。嫉妬されるくらいならば、道化でいた方がいい。

しかし、それが極度の恐怖にまで高まってしまう葉蔵は、繊細に過ぎると感じました。

堀木とヨシ子

ヨシ子が行商人と動物になってしまったところは、悲劇ではありますが、神に問うほど思い詰める事でしょうか。

むしろ、ヨシ子の無垢さは、現代であれば商品としてボロボロになるまで利用されていた気がします。どちらかと言えば、その時代に葉蔵と結ばれたヨシ子は、運が良かったとも言えないでしょうか。

堀木はふつうの人です。与えられた役を無難にこなす、表情のない登場人物でした。

時代背景

この本が書かれた昭和23年と言えば、国民のほとんどが、生きること、食べることに必死だった時代だと想像します。

その中で、代議士の息子という経済的に恵まれた葉蔵の生い立ちは、かなり特殊に感じます。

また、現代の僕たちは、物質的な豊かさという点で、葉蔵と同じ境遇です。それでも、失格するひともあれば、合格するひともあります。

まとめ

人間失格は、失格の普遍的な典型例であって、それ以上でも、それ以下でもなく、僕にとっては、イマイチ興味がわく物語りではありませんでした。

もっと若い頃に読んでいたら、まったく違う印象になったのでしょうか。あるいは、10年後に読めば傑作になるのかも知れません。

本の印象って、時間が経つと随分変わるものです。まるで変わっていないと思った自分が、同じ本を読んで違う印象を受けるのは、自分が変わったということなのでしょう。

今は「人間失格」を、そっと本棚に戻すこととします。