人には誰しも、3度だけ人生を大きく左右するターニングポイントがあるという。今回は、そのうちの1つについて書いていきたい。
全国に展開するGMS(General Merchandise Store)や、SM(Super Market)で見かける3パックがセットになったプリン。メイトーの「なめらかプリン」と「カスタードプリン」の2つだが、この選択に迷った経験はないだろうか。
値段の変わらない2つが、同じ冷蔵陳列に矛盾なく存在している。しかも同じメーカーであることが、その混乱にいっそうの拍車をかける。
そこで僕は、選択という義務を放棄して、どこがどう違うのかわかんねぇから両方買っちまえ、という、ショッピングの枠を超えた乱暴な決断を下した。
それぞれの原材料表示を、ハサミで綺麗に切り抜いてみたが、これはなんだろう。一抹の不安を抱きながら、切り進めていくと、2つはやがて長方形の2枚の紙となった。
微妙にサイズがちがうのは、ある種の意図を含んだメッセージか、あるいは暗喩だろうか。いや、それは、人智を凌ぐ、なんの意味もない偶然の産物なのかもしれない。
僕は、その2枚の原材料の書かれた紙をゴミ箱へ捨てた。それを精査したところで、美味しさを計れるわけでもなく、ましてや真実を明かすことなど到底不可能だからだ。
いよいよ2つのイデオロギーが相対する。両者は、まったくおなじ形状のカップに収められ、それは奇しくも、ひとつのDNAから誕生した2種の生命が、やがて枝分かれしたダーウィンのようだった。
カスタードプリンは、底に滴るようなカラメルが沈殿し、まるで凝固する寸前の血液がガーゼに吸い取られるようだった。
そして一方のなめらかプリンは、どこまでも続く月の地平線のように、のっぺりと起伏がなく、その平坦な表情からはなんの感情も読みとることができなかった。
僕は、未熟さゆえにスプーンを荒々しく突き立て、カスタードプリンを3秒で食べてしまった。もっと味わうべきだったと後悔するには、あまりに幼すぎた。後から考えれば、いくらでも説明がつくのに、終わりは唐突に訪れる。
そして、そのまま、なめらかプリンに手を伸ばすと、大きな疑念がわき起こった。いったんスプーンを洗浄すべきだろうか。わずかに残ったカスタードの残滓が、なめらかプリンの性質を変えてしまうのではないか。
けっきょく僕は、スプーンを執拗にしゃぶることで問題にけりをつけた。わざわざキッチンまで戻ることが、ひどく億劫に感じられたのだ。
そして、なめらかプリンをひとさじすくい、老人がこんにゃくゼリーを啜るように、口元をすぼめて咀嚼した。
こっちの方がウマい。断然ウマい。
人間の味覚を、どこまで信じるべきなのか、その答えを見つけるより先に、僕の直感は、なめらかプリンは美味しいと告げていた。
それは、わずかにきかせた洋酒なのか、あるいは上品に仕立てられたクリームの口溶けなのか、そんな理屈を抜きにした生クリーム感が僕を圧倒した。
誤解を恐れずいうならば、カスタードプリンには作為があった。濃厚ではあるものの、それは作られた濃厚さで、プルンとした食感にも人為的な不自然さを感じた。
それに比べて、なめらかプリンの自然なことよ。生乳のもつ本来の甘みと、たまご由来の芳醇なスイーツ感。これこそプリンのあるべき未来じゃなかろうか。
諸君、なめらかプリンを食したまえ。
もう、迷うことなく、メイトーの「なめらかプリン」を買えばいい。