*
先ほど拝見した記事に、とても興味深いことが書かれていた。
誰かが何かを表現しようとしているとき、その途中を見ないようにするのはマナーなんじゃないかな、と個人的に思っている。何かを作り出そうとする意志が明確になっていく過程を把握されるのは、ものすごく不快だ。
唸ってしまった。
こういう心の機微を、適切に抜き出して、言語化できるというのは、やはり才能なんだろう。
記事は「しっきー」という人が書いているらしく、プロフィールを見ると、まだ20代の方のようだ。若いのにしっかりした文章を綴られているなと、感心してしまった。
コンプレックス
そう言えば、僕も、子供のころ過程を観察されるのがとても苦手だった。
以前、どこかに書いたかもしれないけど、僕は4歳のころに手術を経験している。
生まれつき、舌の裏側が下顎に癒着していたので、それを外科的に切り離す手術だった。入院は手術の1週間前後だったけれど、多動児であった僕は、病院のベットに縛りつけられるのが想像を絶する苦痛だったのを鮮明に覚えている。
「治すために来ているのだから…」と説得する両親に対して「治らなくてもいいからここから出して!」と、幼い僕は、目に涙を浮かべて悲痛に訴えていた。
そんな僕の慰みに、両親から与えられたのが粘土だった。初めはこんなモノ、と思ったけれど、気がつけば僕は、目が覚めているあいだ中その粘土を丸めていた。
そして作り始めたのが、ゾウだった。僕は粘土を成形して、来る日も来る日もゾウを作った。粘土が無くなると、あらたに追加してもらった。ベットの周りは、みるみるうちにゾウで埋め尽くされていった。
そんなある日、両親の知人のおばさんがお見舞いにやって来た。ゾウを作る噂を聞きつけてやってきたようだった。
僕は、最初からそのおばさんにイヤな予感がしていた。そして、あまりにも熱心に観察されるので、僕は、おばさんにゾウを投げつけて「帰れ」と言ってしまった。
あの時、僕はなぜあんな怒りを感じてしまったのか、ずっと疑問に思っていたけれど、その答が今日、見つかった気がする。
あれから
手術は無事に成功して、僕はよく動く舌を手に入れた。
でも、舌を動かす動作や、発音する口の開き方が拙くて、今でも舌足らずな、モゴモゴとしたしゃべり方になっている。
日常生活に不自由はないけれど、困るのは、舌の先端を尖らせたり出来ないこと。
小さな物を舐めるとき、他の人たちは舌の先でコロコロできる。なのに僕は、顔をうずめて舌を押しつけないといけない。
理想としては、先っぽを尖らせてチロチロしたいのだけど、まるくて短い僕の舌は、どんなに伸ばしても短いまま。だから思春期には、テレビで芸人さんが披露する、高速ペロペロに憧憬の念を抱いていた。
もっと奥まで舐めたいときも、まえに少ししか伸びないから、すぐに口のまわりがベタベタになってしまう。舌が長ければ、それも綺麗になめとれるのだけど、いくら懸命に伸ばしても口の周りまでしか届かない。
それでも、僕なりに工夫はしている。くちびるで摘んだり、小刻みに吸い込んでみたり、顔をうずめて左右にふってみたり…。舌ですくいとったのは、ぜんぶ飲み込んでしまってる。
そして、思う存分にペロペロしたあとは、気づかれないようにタオルでそっと顔を拭っている。鼻の頭からほっぺたまで、ベタベタになった顔を見られるのは、やっぱり恥ずかしいから。
だったら舐めなければいいというのは、乱暴だけどもっともな話しだよね。でも、好きなんだからしょうがないよ…。生き甲斐なんだ。
もしも僕に、長くてよく動く舌があれば、ソフトクリームも上手に食べられるし、いろいろ捗るのにと考えると、とても切ない。
そんなふうに感じる、今日この頃でした。