散るろぐ

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「脱糞」を読んで


「脱糞」は、ソーシャルゲーム批判で知られる著者しっきーが発表した初の小説である。

排便を主題に主人公の増田貰志(ますだもらし)と3人の男女が秘境グンマーのうんこ谷を便意を堪えながら行軍するという奇想天外な内容だが、そこには人の持つ理性と本能の葛藤が鋭く描かれている。また著者の豊富な知識と才能の無駄遣い的なインターネットカルチャーを駆使し様々なコンテクストを高度に融合した短編に仕上がっている。


突然来た……とは思わなかった。ずっと感じていた重苦しい不安がついに具現化したみたいに、そう思ったときにはすでに猛烈な便意が自分の中にあった。

かつてこれほど便意を的確にあらわす心情描写があっただろうか。食べたら出る。排便とはコーラを飲んだらゲップが出るというくらい確実な生理現象である。ゆえに、重苦しい不安とは、起こりうるべき必然の予感であり、著者の中には、そんな必然を突然とは呼びたくない、理性に対する潔癖なまでの信仰がある。

脱糞を我慢する苦しみは、生理的なものというよりもむしろ社会制度や人間関係に拠っている。人が人であるがゆえに課される試練。
 避けられない痛みはある。しかし排便を我慢し続けることは、人間のみに与えられた地獄だ。常に楽になる選択肢を突きつけられた上で、我慢し続けなければならない。生理に抗い続けなければならない。


排便とは快楽でもある。しかしそれは時と場所さえ適切ならばの話だ。それを我慢しきれずに漏らしてしまうのは、理性の敗北と同時に真の姿でもあると言える。つまりうんことは人類が抱える理性と本能の葛藤をもっともシンプルに提示するモチーフたり得るのだ。僕は著者の慧眼にひれ伏してしまった。


そして物語の終盤、うんち仙人は漏らした増田貰志をこう諭す。

人は排便という生理的な現象を我慢することにより初めて人になる。


大いに頷く弁だが、その一方で(逆説的だが)漏らすという行為は人間が人から動物に堕ちることを意味している。それが短編「脱糞」に込められた著者からの重要なメッセージではないだろうか。


「脱糞」を読了して僕が感じたのは、著者の中では本心を漏らすことと排泄に密接な関わりを感じているということだ。そして、煽り(あおり:意図的に相手の感情を逆撫でして怒らせること)は、本心を漏らして羞恥に塗れる自分自身への恐れではないだろうか。

そこから垣間見えるのは、著者のプライドというよりトラウマであり、過去に壮絶な原体験を抱えていると感じられる。そう、まるで公衆の面前で大を漏らしてしまうような…。

しかし、恋心の本心を吐露する事と、生理的欲求にしたがってうんこを漏らすのを同列には語れないし、社会に適応するのは自分を偽ること(うんこを我慢すること)でもなさそうだ。なにごとも自然体でいることが肝要ではないだろうか。

もっとも増田ならば1000ブクマオーバーで賞賛の嵐に包まれたであろう短編が、ブログでは臭い物に蓋をするように埋もれてしまうのは、とても残念でもある。