散るろぐ

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ノーブログ、ノーライフ

僕の最も古い記憶は、2歳かもしれない。布団にあお向けで寝ている僕に、2つ上の姉が哺乳瓶で粉ミルクを飲ませてくれているという映像である。


http://www.flickr.com/photos/39792195@N00/2177072453
photo by looseends



その記憶の中では、寝ている自分と部屋全体を俯瞰している2つのイメージが同時に浮かんでくる。母親が姉に哺乳瓶を渡し、部屋を出ていく姿まで鮮明に記憶されているのだ。

このシーンの前後は真っ白であり、つぎの場面は一気に幼稚園の運動場に飛ぶ。そこからは、家中に散らばる資料と、僕の曖昧な記憶を丹念に擦り合わせていけば、おおよその記憶を時系列にならべることが可能だろう。

しかし、2歳の記憶に、論理的な説明を付けるのは難しい。どこまでが真実で、どこからが捏造なのか、そして捏造されたにも関わらず、映像として浮かぶのはなぜか?科学的な証明をすることは不可能だ。

同じく、ブログの記事にも、科学的な説明がつかない部分が多々ある。記憶頼りの散文であれば、尚更かもしれない。

そこに看過し難い脆弱性を見つけたとしよう。だが、それがなんだと云うのか?学術論文でもない、ただの散文に、イナゴのように群がり、ゴミ、バカ、精神薄弱だと罵らなければならないのだろう。

ブログの記事は、どこまで行ってもブログ記事である。ある日とつぜん確度の高い情報になるわけではない。また、読者各人のフィルターを介せば、如何様にも変容しうる、儚い文字の集合体に過ぎない。

だから僕は、その儚さ故に、いつの時代も、どんな書物に対しても、ノークレームノーリターンでありたい。その心持ちがあるから、万人を、世界中の多様性を愛することができる。

そう、願っている。